中道 壽一
Hisakazu NAKAMICHI
研究室 : 093-964-4213
E-mail :nakamiti@kitakyu-u.ac.jp

 

 

 

 

「リスク社会と想像力」
(ゼミ論文集『政治と思想―新しい政治を求めてXII』(2005年3月)の巻頭言)

「ピープルになる」ということ
(ゼミ論文集(夜間主コース)『今を問うー共生をめざしてー』(2005年3月)の巻頭言)

「安全性追求のパラドクス」
(ゼミ論文集『政治と思想―新しい政治を求めてXIII』(2006年3月)の巻頭言)

「『学びほぐすこと』のすすめ」
(ゼミ論文集『政治と思想―新しい政治を求めてXW(2007年3月の巻頭言)

「『X世代』を乗り越えて」
(ゼミ論文集『政治と思想―新しい政治を求めて]X』(2008年3月の巻頭言)

 

 

 

*これはゼミ論文集『政治と思想ー新しい政治を求めて]X』の巻頭言です。

 

巻頭言 ―「X世代」を乗り越えて

 

中 道 壽 一

 

  ゼミのテーマは、今年度も「現代社会と政治思想」とし、4つの課題を掲げた。すなわち、「ユートピアと政治思想」、「エスニシティと政治思想」、「環境問題と政治思想」、「リージョナリズムと政治思想」の4つである。これら課題に4つのグループが挑戦し、それぞれのテキストを選択した。「ユートピアと政治思想」では樺山・坂部・古井・山田・養老・米沢編『20世紀の定義 2 溶けたユートピア』(岩波書店、2001年)を、「エスニシチィと政治思想」ではM・マルティニエッロ『エスニシティの社会学』(宮島喬訳、白水社、2002年)、「環境問題と政治思想」では松下和夫『環境政治入門』(平凡社新書、2000年)、「リージョナリズムと政治思想」では脇阪紀行『大欧州の時代』(岩波新書、2006年)をテキストとして使用した。

『溶けたユートピア』は「二十世紀を読む」「二十世紀の水源」「二十世紀の臨界」の三部構成になっている。二〇世紀は近代啓蒙の頂点であると同時に崩壊でもあることから、その二十世紀をどのように読み解き、どのように対決していくかということが重要な問題となるが、「二十世紀の水源」では「二十世紀」問題のまさに「水源」について掘り起こし、「二十世紀の臨界」では「二十世紀」の抱える諸矛盾のさまざまな分野での露出(「ユートピアの溶解」)を描出し、「二十世紀を読む」では「二〇世紀」問題への対決のあり方について論じられている。たとえば、「おおきな物語」だった社会主義社会が崩壊して「極端なまでに衰微したわれわれのユートピアへの構想力」にとって今必要なものは、「『人権』や『民主主義』など第二近代の最良の遺産を継承しつつ、『国民国家』と『市場主義』を軸とした第二近代の世界システムを内側から批判的に組み替えていくような思考」=「トランスモダン」の思考である(野家啓一)、などといった、二十世紀を二十世紀自身に語らせながら、二十世紀問題と対決するという方法についてである。

『エスニシティの社会学』の特徴としては、社会学の視点から「エスニシティの@個人的・微視的、A集団的・中間社会的、B巨視社会的、というレヴェル分けを行ない、さらに、社会階級、ジェンダー(性)、政治との関連を問うなど、極めて広い視野で議論を展開している」点があげられるし、その利点としては、こうしたエスニシティの多角的考察によって「民族的なものの無害な表出を可能にする諸条件、民族紛争を結果するような民族所属の激しい欲求を導く諸条件、民族からおよそ社会的・政治的意味を取り除いてしまう諸条件」を明らかにすることができる点があげられる。

 『環境政治入門』は、「環境という公共的利益にかかわる、権力をともなった多元的主体の活動」という「環境政治」の定義を用いながら、「環境問題をめぐって、国家のみならず、地方公共団体、企業、NGO、NPO、国際機関、さらには研究者グループやマスコミの果たす役割」の増大した現在状況を背景に、アメリカを参照軸として日本の環境政策や環境政治を検討しながら、「持続可能な社会」の実現のための環境協力の方向性について詳細に検討している。

『大欧州の時代』では、EUが、冷戦後、単一通貨ユーロの導入やEU部隊の創設、二酸化炭素排出権取引市場の設立などの具体策を次々と結実させてきたが、何よりも中東欧10カ国の加盟を認めたことで東西欧州が再統合され、21世紀の世界に大きな影響を与える加盟国25カ国からなる「大欧州」を誕生させたこと、また、EUというこの巨大組織の仕組みや、そこでの諸政策をめぐる駆け引き、「欧州外交」などについて詳述され、欧州憲法の制定や「イスラムとの共生」についてのEUの今後の方向性や、「東アジア共同体」の可能性についても論及されている。

 以上は、今年度、ゼミ室で、あるいは、夏季合宿の壱岐島で読みかつ議論したことがらであるが、これら4つのテーマを貫くものとして「新しい政治」の模索があった。各自が、それぞれの課題から、この「新しい政治」にどのようにアプローチしたかについては、グループ別の議論と全体での討論を経由して、本論文集の各自の論文に結実しているはずである。

P・サックスは『恐るべきお子さま大学生たち』(草思社、2000年。原題:Generation X goes to college)という本の中で、まさに「恐るべき大学生たち」の姿を取り上げている。すなわち、授業中におしゃべりに夢中になっているので注意すると「自分たちの会話を妨害した無礼な奴」として教師をにらみつける女子学生、教室に携帯テレビを持ち込んで眺めているので注意すると「どうせこの番組は前に見たし」といってスイッチを切る学生、宿題をやってこなかったので理由を尋ねると「やってきたら宿題の点を成績に加えてくれるならやっていい」と答える学生たちである。サックスは、こうした「中高年教師にはとうてい理解できない新しい価値観・行動様式を持った学生たち」を「X世代」として紹介している。この「X世代」という言葉には、「今の若い学生世代に対する中高年教師世代の苛立ち、不信、怒り、絶望などが入り混じった感情」が込められている、と潮木守一は言う。しかし、多く読まれているこの本について賛否両論の議論が起きないのは、この本が「現在の大学教師が胸に秘めている怒り、絶望、無力感、やりきれなさを、あまりにもリアルに語っているためである。論争しようにも、誰にも出口が見えないからである。議論すればするほど、徒労感が残るからである」と、大学のおかれている「恐るべき」状況について述べている(『大学再生への具体像』東信堂、2006年)。

 ところで、R・パットナムは、アメリカにおいてボウリングをする人間は増えているのだが、クラブのように組織された仲間でのボウリングはこの10年ほど大きく落ち込んでいることを指摘(1980年から1993年の間のボウリング総人口は10%増であるのに対して、仲間内でのボウリングは40%減少している)し、このことは、ボウリング場でビールを飲みピザを食べながら行われる市民的会話、社会的交流の喪失を意味するとして、一人でボウリングをする人の数の増加に「アメリカ社会におけるソーシャル・キャピタルの減退のひとつの象徴の例」を見ている。そして、彼は、「市民参加と社会関係資本の衰退に貢献してきた要因」として、「時間と金銭面でのプレッシャー」、「郊外化、通勤とスプロール現象」、「電子的娯楽―とりわけテレビ―が余暇時間を私事化した影響」、「世代的変化」の4つを上げているが、その中でもっとも重要な要因は「世代間変化」だという(R・パットナム『孤独なボウリング』柏書房、2006年)。市民的活動への参加の少ない子供や孫の世代への、緩慢ではあるが着実で不可避的な世代交代」が50%以上の影響力をもって「市民参加と社会関係資本」を衰退させているという(宮川・大守編『ソーシャル・キャピタル』東洋経済新報社、2004年)。

「新しい政治」を模索するということは、既存の政治のあり方を変えていこうとすることであり、その意味において、自律した市民の模索でもある。したがって、アメリカのみならず、わが国の大学においても「X世代」の増加しつつある現在状況で、「新しい政治」を模索するということは、ドンキホーテ的試みとして、結局は徒労に終わるのではないかと悲観的に考えたくもなる。しかし、「新しい政治」の必要性を思えば思うほど、目の前にいる熱心なゼミの学生たちとその議論の輪の拡がりに期待せずにはおられない。「世代間変化」をプラスに変えるためにも、自らの経験を大切にして、「新しい政治」を模索する意味についていつまでも考え続けてもらいたいものである。

 

2008年3月22日

 

 

*これは、ゼミナール論文集『政治と思想―新しい政治を求めてXW』(2007年3月)の「巻頭言」として掲載したものです。


巻頭言・・・「学びほぐすこと」のすすめ

                  中 道 壽 一



 
このゼミでは、「現代社会と政治思想」というテーマを掲げて、環境問題と政治思想、エスニシティと政治思想、リージョナリズム(地域主義)と政治思想、ユートピアと政治思想という4つの課題に取り組みながら、「新しい政治」を模索している。毎年、課題ごとにグループを組み、各グループが1冊ずつ適切と考える本をテキストとして取り上げ読破するため、年間4冊読むことになる。しかし、近年、ゼミ生の減少により、3グループしか作れなくなった。そのため、使用テキストも3冊平均となっている。今年度は、「エスニシティと政治思想」のグループが作れなかったため、「環境問題と政治思想」グループの加藤尚武『新・環境倫理学のすすめ』(丸善ライブラリー、2005年)、「リージョナリズム(地域主義)と政治思想」グループの丸川哲史『リージョナリズム』(岩波書店、2003年)、「ユートピアと政治思想」のグループの坂上・巽・宮坂・坂本編著『ユートピアの期限』(慶應義塾大学出版会、2002年)の3冊をテキストとして使用した。



『ユートピアの期限』が問題としているものは「ユートピアの起源」ではなく、「賞味期限の切れたユートピア」である。「描いた世界にたどり着こうとする人間の願い」をユートピアとすれば、それは「欲望充足のユートピア」と言い換えることもできる。編者の坂上貴之氏によれば、人間は、物への欲望、時への欲望、愛への欲望、肉体の健康・情想の健康への欲望、知識や智慧や悟りへの欲望という5つの欲望を頂点とした空間=「欲望の六角錐」の檻の中で生活しているのであるが、いずれこの「欲望充足のユートピア」に期限を見出すことになるという。第一の期限は「欲望の不可能性」に由来する期限であり、第二の期限は「欲望充足の幻想」(願いはかなえられたと錯覚する)に由来する期限である。それでは、この二つの期限によって「欲望充足のユートピア」は消滅してしまうのであろうか。編者によれば、「別の新しい種類の欲望とその充足へのユートピア」が生み出されると言う。「今までの欲望のあり方を支配してきたものから脱出したり回避したりすること、すなわち支配されたり制約されたりしているものとの共存共栄によって、もう一段階高次の欲望」の充足へのユートピア=自然との「共生」、快や美との「共存」、「共同・共有・共感」のユートピアである。こうした「共」性のユートピアは、まさに現代のユートピアであるが、このユートピアの期限は、「共」性の欺瞞性の発見に由来する期限であるがゆえに、「私たちの現在」の期限でもある。もちろん、ユートピアには想像力、変革力、治癒力があって、ユートピアはこれまで多くの人々を惹きつけ、歴史を突き動かしてきたし、これからもその力を発揮するであろう。しかし、ここでは、ユートピアの「期限」に挑戦してみることで、「新しい政治」の有様を検討することができたように思われる。



 『リージョナリズム』では、「空間認識にかかわる言説編制」が問題とされている。著者によれば、「リージョンregionの語源は、動詞形の『統治する(reign)』から派生する政体(regime)や軍官区(regiment)にあたる。つまりそれは、政治的・軍事的な支配やコントロールのニュアンスと分かちがたくある」ので、「リージョン」を「イズム(-ism)

として方法化」する意義としては、「地理空間(とともに文化空間)の境界をどう画定するかという関心に集中すること」「自他を区別する境界を永遠のものとするのではなく、その境界設定を広義の知的戦略的活動の一環として論じることを可能にする」ことにある。すなわち、「リージョナルなものの変容、つまり境界設定の組替えを認識様態(エピステーメ)の転換」として論ずることにある。このことから、「ヨーロッパ=世界」史が相対化され、「オリエンタリズム」の偏狭性が見透かされ、戦前・戦中・戦後の日本の「アジア」認識の問題性が明らかにされる。竹内好の「方法としてのアジア」もこの文脈において再評価される。

 

 『新・環境倫理学のすすめ』は、『環境倫理学のすすめ』から14年間の世界の変化、より深刻化した環境問題に対応して書かれたものである。ベルリンの壁崩壊後、世界は国際協調路線によって貧富の格差など様々な問題を解決する方向に進むのではなく、「不合理と不平等を固定化する方向」に進んでいるなかで、「いわゆる先進国は、枯渇型資源に依存しつつ廃棄物を累積させていくという現体制、すなわち持続可能性の欠如した体制を永久に続けることはできない。そこから脱却する道を見出さなければならない」と主張し、「真の持続可能性の発見」の必要性を強調する。それゆえ、本書では『環境倫理学のすすめ』で提示した環境倫理学の三原則、世界の有限性、世代間倫理、生物種の生存権から、以下の三つの義務が導き出される。すなわち、「枯渇型資源への依存と廃棄物の累積を回避しなければならないという義務」、「持続可能性を確保するという義務」、そして「生物多様性の保存という義務」である。いずれも重い課題であるが、「投げ出さないで引き受けてほしい」という著者から若者たちに対するメッセージが込められている。



ところで、昨年末の新聞記事で「学びほぐす」という言葉を目にした。それは哲学者鶴見俊輔氏と医師徳永進氏との対談記事「鶴見俊輔さんと語る・・生き死に 学びほぐす」(朝日新聞、2006年12月27日)である。この対談の中で、長く末期医療の現場にいる徳永医師は「生きているときは、日常の暮らしより理想や主義主張、仕事、金もうけが大事だが、死を前にすると価値が逆転する。ありふれた日常の暮らしが生命の根本だとわかる」と語るのであるが、対談後の鶴見氏は、がん患者に対して徳永氏が「あなたはがんではありません」と言うのは「死に臨む人が語り残したことばをくみ取り、まなんだからである」と述べた後、次のように続けている。「戦前、私はニューヨークでヘレン・ケラーに会った。私が大学生であると知ると、『私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった』といった。まなび(ラーン)、後にまなびほぐす(アンラーン)。『アンラーン』ということばは初めて聞いたが、意味はわかった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。大学でまなぶ知識はむろん必要だ。しかし覚えただけでは役に立たない。それを学びほぐしたものが血となり肉となる。徳永は臨床の場にいることによって、『アンラーン』した医者である。アンラーンの必要性はもっとかんがえられてよい」と。この「まなびほぐす(アンラーン)」ということばが気にかかっていたが、それから約一月後、大江健三郎氏が「定義集 人はいかにまなびほぐすか―『学び返す』と『教え返す』」 (朝日新聞2007年1月23日)のなかで、この記事に触れていた。大江氏は、「アンラーン」を「まなびほぐす」と訳した鶴見氏を評価しながらも、「まなびほぐす」とはいっても一体「どのようにしてまなびほぐすのか」ということを考えるために、unlearn の対の言葉としてのunteach を持ち出す。大江氏によれば、unteachを辞書で調べると、「(人)に既得の知識(習慣)を忘れさせる、(正しいとされていることを)正しくないと教える、・・・の欺瞞性を示してやる」(リーダーズ英和辞典)と記されている。教育の現場では、教師が「教え」学生が「学ぶ」という一方的な関係ではなく、教師と学生、学生と学生がともに「教え」「学び」あうという双方向の関係が成り立っているということを、大江氏はunlearnにunteachを並べさせることで伝えたかったのではないか。



 
ゼミは講義と異なり、教師が一方的に学生に教える場所ではない。すくなくとも、このゼミでは、その都度、発表者が交代し「教師」となったり「学生」となったりして、「教え」「学」んでいる。それゆえ、ゼミでは「学び返す」ことや「教え返す」ことが繰り返し行われているといってよい。しかし、大切なことは、こうしたゼミでの訓練が、大学を出た後のそれぞれの「現場」で、どのように生かされるかである。今後も、ゼミのときと同じように、「学び返す」ことや「教え返す」ことを身近な人々と行うことは必要であり重要なことであるが、さらに、自らの中で「学び返す」ことと「教え返す」ことを同時に行わなければならない。むしろ、今後は後者の方が多くなると思われる。おそらく、その行為こそ、「まなびほぐす」ことではないだろうか。今年度、『ユートピアの期限』や『リージョナリズム』、『新・環境倫理学のすすめ』で得た知識、互いに「学び返す」ことや「教え返す」ことで得た知識を、これからの生活の中で「まなびほぐす」ことを続けてほしいと、切に願っている。

                                      2008年3月14日





*これは、ゼミナール論文集『政治と思想―新しい政治を求めてXIII』(2006年3月)の「巻頭言」として掲載したものです。

 

巻頭言: 安全性追求のパラドクス



「安全(security)という概念は、あまりにも長い間、国家間に潜在する紛争によって左右され続けてきた」けれども、多くの人間にとって「不安/危険性(insecurity)は・・日常生活の維持にまつわる難事、悩み事に起因する」ものであるという認識にたって、国連開発計画の『人間開発レポート94』(1994年)は、「安心して日常生活を送りたいという普通の人々への配慮」としての「人間の安全保障(human security)」の促進を訴えている。しかし、今年度も、犯罪や事故、自然災害等による生命の安全性、特に子供の生命の安全性にかかわる事件、アメリカ産牛肉輸入問題など食の安全性にかかわる事件、アスベストや耐震強度偽装など住の安全性にかかわる問題が続出し、我々の生き住み暮らすという日常生活の安全性はますます脅かされ、その根幹が揺るがされてきている。さらに、規制緩和と競争社会化の促進、そのことによって生じる「敗者」のためのセイフティネットの不備などにより、格差社会化をめぐる議論が高まっている。こうした状況の中で、「暮らしの安心の確保」と「国民の安全の確保」という安全性(security)にかかわる2つの項目が今年初頭の首相施政方針演説の7項目の中に盛り込もれたことからも分かるように、安全性の追求はますます重要、不可欠なものとなってきている。  しかしながら、現在の安全性の追求は「生きるに値する人々」のための安全性の追求であり、その追求はパラドクスの上に成り立っている。このことを斉藤純一氏は次のように指摘している。「現在、『社会の安全』は、『余計者』を社会の周辺に放逐し、そこに隔離する仕方で構築されようとしている。そうした安全性の追求(いわゆる『社会防衛』)においては、周辺化される人々には危険性/不安が二重の仕方で配分されることになる。第一に、・・かりにセイフティネットによってぎりぎりの生存が保障されるとしても、それは社会的な周辺化―それに伴う孤立化―を克服する条件とはならない。第二に、・・貧困はそれだけで生を危険に曝すが、その貧困が反社会性や準犯罪性を結び合わせることによって、彼/彼女たちは『危険な者たち』として表象されることになる」と。もちろん現代社会においては、周辺化された人々だけでなく、中心部にいる人々も危険性/不安を免れることはできない。「『生き残り』への不安を積極的に醸成し、その不安を発条とするエネルギーを活用すること。これが、目下の社会的な統治の根幹であり、その圧力のもとで自らの生を防衛していくためには、社会の変化に即応して自らを柔軟に再編していく意欲と能力があることを不断に示し続けなければならない。人びとは自らの生の安全を絶えざる不安―『いまのままではいけない』―のもとで追求することを強いられる。そうした『生き残り』を賭けた闘いが生の荒廃をもたらし、生活防衛のための懸命な努力が生活を破壊するというパラドクス」(斉藤純一編『親密圏のポリティックス』ナカニシヤ出版、2003年)。現在の安全性の追求は、まさに、こうしたパラドクスの上に成立しているのである。



「住宅地は『高さ2フィートの鉄条網をその上に張り巡らされた6フィートのブロック塀』に囲まれており、300人以上の施設警備員が敷地内を巡回している。他の住宅地、特に著しい金持ち向けの隠れ家のような安全警護団地では、レーザーセンサー、車止めつき警備門、電子施錠、テレビモニターによる高度な警戒システム、コンピューターにつながった自動警報装置による精巧なシステムが備えられている。」(E・マッケンジー『プライベートピア―集合住宅による私的政府の誕生』世界思想社、2003年)。こうした住宅地のことを、「ゲ−テッド・コミュニティ」、「要塞都市」という。 『ゲーテッド・コミュニティ―米国の要塞都市』(E/J・ブレークリー、M・G・スナイダー、集文社、2004年)によれば、ゲーテッド・コミュニティの数は、1990年代末の時点で全米に約2万箇所あり800万人を越える人々が居住している。この数は、9・11テロ事件以降増加傾向にある。また、その類型としては、「退職者などに向けて、ゴルフコース、カントリー・クラブなどのレジャー施設を含めた居住区として郊外で新たに開発された」ライフスタイル型、「ゲートをステイタスの象徴ととらえ、・・超富裕層向けから中流階層向けまであらゆる所得層を対象とした居住区」としての「威信」型、「住民が現に住む居住区から離脱するのではなく、そこにとどまるために、その居住区を保安装置を備えた居住区に改造する」保安圏型の3つがあり、それぞれの型がさらに3つに区分されるが、保安圏型は都市型居住区、郊外型居住区、バリケード型居住区に区分され、バリケード型居住区が急増しているとのことであり、さらに、すべてのタイプに共通することは「居住区の保安確保に対する居住者の強い欲求に起因するものである」ということである(竹井隆人『集合住宅デモクラシー』世界思想社、2005年)。 こうした「ゲーテッド・コミュニティ」化に見られる、富裕層による安全な空間への自らの囲い込みは、他方において、潜在的な犯罪者と見なされる貧困層を「ゲットー」へと押し込め、建築と警察による徹底的な監視と規制が行われる「監獄都市」化をももたらし、異種混交のコミュニケーション空間としての公共空間を駆逐していく(M・デイヴィス『要塞都市LA』(青土社、2001年)。こうした社会的空間の分断は、「立場を異にするものたちの間の政治的コミュニケーションを妨げ、別の空間に生きている人々に対する無関心や、歪んだ表象をもたらしていく」。まさに、「social security(社会保障)」への関心の衰退に反比例して「public security(治安・公安)」への関心が高まっているのである(斉藤純一『公共性』岩波書店、2000年)。



昨年末、厚生労働省、総務省の発表した統計から、日本が人口減少社会に突入したことが確認された。すなわち、日本はこれまで経験したことのない少子・高齢化、人口減少社会にはいったことになる。だとすれば、「人口減少社会では、成長が限りなくゼロに近い社会になる。個人の生活や世代に焦点を当てると、格差が固定されるか、二極化を容認するなら中流から下に落ちていく人が増え」ていく。さらに、二極化、固定化の進行とともに、「この二つが合わさりながら日本社会は変わっていく」ことが予想される。したがって、このような状況下で、上の層を優遇する政策は、いやがうえにも二極化を加速させることになる。かくして、「IT化などによる新しい経済成長の下で所得格差が拡大した米国の事例から、所得層の構成は、上が2〜3割、中ぐらいが4〜5割、下が2〜3割になるとの予測もある。したがって、「二極化する社会の中で、見捨てられそうになる人に希望がある生活が送れるようにすることが大事である」(朝日新聞、2006年1月1日「少子化変わる生活」、1月6日「新社会のデザイン―人口減社会は明か暗か」)。 もちろん、格差社会において「敗者」に「希望のある生活」を保障することは重要であるが、それとともに、格差社会を乗り越える視点も必要であろう。その一つとして、「親密圏」というとらえ方が最近注目されている。斉藤氏によれば、親密圏は、「ひとが社会的な評価に過剰に曝されることを防ぎ、引き続き有用でありうるか否かといった評価から少なくとも部分的に効力を奪う。親密圏の他者は、社会的な承認とは異なった承認を、社会的な否認に抗しながら、人びとの生に与えることができる。そうした承認は、生は傷つきやすく、損なわれやすいものであるという認識とも結びついているだろう。無視されていない、排斥されていない、見棄てられていないという受容の経験は、人々の『間』にあるという感覚や自尊の感情を回復させ、社会が否定するかもしれない生の存続を可能にする」(『親密圏のポリティックス』)。これまで、こうした親密圏の代表的なものとして家族が位置づけられていた。しかし、家族は親密圏のひとつに過ぎない。むしろ、最近では、「家庭内暴力」「児童虐待」など、家族の危険な実態が露わになり、安全な空間という「家族の神話」は崩壊している。にもかかわらず、家族を含めた親密圏の両義性、「支えることと繋ぎ止めること、配慮することと包み込むこと」など、すなわち、両義性のもつ「同化と抑圧の空間に転化する危険性」(『公共性』)を自覚しつつ、「人々の『間』にあるという感覚や自尊の感情を回復させ、社会が否定するかもしれない生の存続を可能にする」親密圏の可能性を認め、その構築に努力する必要があるのではなかろうか。 過剰な競争と評価にさらされ続ける現代社会において、大学が、社会との垣根を取り払い、その一翼を担っているとき、大学に親密圏としての役割を求めることはドンキホーテ的錯誤と見なされかねない。にもかかわらず、「知の共同体」として大学には、その役割が存在しなければならない。そうした状況にあって、せめて「大学の中の大学」としてのゼミナールには存在していてほしいと願うし、存続させたいと思っている。

2006年3月1日

 

 

 

 

 

 


*これは、毎年度末に刊行しているゼミナール論文集『政治と思想―新しい政治を求めてXII』(2005年3月)の「巻頭言」に、卒業生へ贈る言葉として掲載したものです。


巻頭言: リスク社会と想像力


今年度を振り返ってみると、地震、津波、洪水、豪雪などの自然災害だけでなく、戦争、犯罪、たとえば、「オレオレ」詐欺から性犯罪、コンピューター犯罪、放火、親殺し・子殺し、誘拐殺人、教育現場での殺人事件などの凶悪犯罪にいたるさまざまな犯罪、BSEや鳥インフルエンザなどの感染症といった、私たちの生活の安全性を脅かす事件が多発した。こうした事例を挙げるまでもなく、現代社会に生きる多くの人々にとって、安全や安心は極めて重要な価値であり、その価値の実現は切実な願いであり、したがって、「災害に強い街づくり、犯罪の防止、感染症への備え、ネットワーク社会でのプライバシー保護」などは、最重要課題である。その意味において、現代社会は「不安な社会」と言ってよい。しかし、Z・バウマンによれば、今日の「不安な社会」は、かつてS・フロイトが「文明における不安」として捉えた「不安な社会」とは大きく異なっている。かつて文明は、自然や他者からの恐怖・危険に対して、安全と自由を提供しながら、その代償として、本能を一定の限界内にとどめるという形で個人の自由に抑制を加えるため、精神的不快やノイローゼなどの「不幸な状態」をもたらした。だが、今日の「不安な社会」とは、「自信の喪失、自らの能力や他の人の意図に対する信頼の喪失、増大する無能力感、不安、用心深さ、あら捜しやスケープゴートづくり、攻撃への傾向」といった、「責めさいなまれるような実存的不信の兆候」の見られる社会なのである。この社会では、これまでルーティン化されていたものはすでに破壊されてしまい、それを頼りにすることもできない。たとえそれがまだ僅かに残っていたとしても、「学習された反応は、それらの有効性を急速に失うために、習慣へと圧縮されもしないし、決まりきった行動へと凍結されもしない。各選択から生じる望ましくない結果の予測と、そうした結果を正確に計算することはできないという認識は、ある行為の結果をよりよくコントロールしたいという主張よりも、すべての行為に含まれるリスクに対して保険をかけたいという欲求や、諸結果に対する責任を放棄したいという欲求を促進する」(『政治の発見』日本経済評論社、2002年)。

このような視点から現代日本の「不安な社会」を見るならば、そこには以下のような社会の姿が浮かび上がってくる。すなわち、グローバリズム、ネオリベラリズムの名の下に、個人が「常に選択の自由を持ち」ながら、同時に、常に「リスク計算を強いられる社会」、「すべてをコストとリスクのバランス」で考え、「『自由』も計算可能であり、社会全体の安定や効率をコントロールするための要素」にしてしまう社会であり、そこでは、「あらゆることが自己責任となることから、過剰に防衛的になり、相手に対しても厳密に規則を守ることを求める」ため、「生まれてから死ぬまで、常に緊張し続けなければならない」(東浩紀「厳密な『管理社会』の危うさ」『朝日新聞』2004年6月3日)苛酷な社会である。また、ここでは、「自由と管理は等しく共存している。私たちはかつてなく自由でもあるし、自由を奪われてもいる。自由か不自由かの差異を問う意味自体が失われている」社会であり、そこには、「得体の知れない力」として、ファーストフード店の「硬い椅子」のような、「意味を問うことさえ意味がないと思わせるしくみ、大義を必要としない物理的な権力装置」=「環境管理型権力」(東浩紀)(「ネオ・エチカ 新しいレンズを求めて」『朝日新聞』2005年1月11日)が成立している社会でもある。

こうした社会のことを、U・ベックは「危険(リスク)社会」と呼んでいる。リスク(risk)とは、「社会の発展と無関係に外から襲う危険(danger)」ではなく、「近代化と文明の発展に伴う危険」「人間の営み自身が不可欠なものとして造りだした危険」なのである。したがって、この社会にみられる連帯とは、従来の「貧困の連帯」ではなく、近代社会の生み出したこのリスクに対する「不安の連帯」(この不安は組織化されないので、「不安の連帯」といっても、個々バラバラの個人の持つ不安の集合体にすぎない)である。さて、ここで指摘したいのは、「危険(リスク)社会」は「スケープゴート社会」でもあるという点である。「飢えや困窮の場合と違って、危険の場合は、不確実性や不安感がかきたてられても、それを解釈によって遠ざけてしまうことも多い。・・・・。危険意識においては別の思考や行動にすりかえたり、別の社会的対立にすりかえたりすることが頻繁に起こりやすい。また、すりかえることが必要とされる」。その限りで、「危険社会は『スケープゴート社会』への内在的な傾向を含んでいる」。そして、この傾向は、民主主義に対して全く新しい種類の挑戦を突きつける。すなわち、危険社会は、「危険に対する防衛のため」「最悪の事態を阻止するため」という「正当な」理由によって、「別のもっと悪い事態」を引き起こす。「民主主義体制が機能不全に陥るか、あるいは、権威主義的で公安国家的な『支柱』によって民主主義の基本原則を失効させてしまうかどちらかを選ばなければならない」(『危険社会』法政大学出版局、1998年)という二者択一の窮地に陥れることになる。私たちは、今、こうした八方塞がりの状況の中で立ち尽くしている。

しかしながら、リスク社会だからといって、ぺシミスティックにのみ考える必要はない。「リスクがあるということは、他面チャンスがあるということであり、リスク社会は他面からみればチャンス社会でもある」。ただ、「チャンスを発見するためには、リスクを発見するよりもよりポジティブな姿勢が必要であり、時代の流れを客観的にみて、それに適合的な変革の『試み』をすることが求められる」(篠原一『市民の政治学』岩波新書、2004年)。したがって、「リスク社会」の只中に入ろうとしている学生諸君は、リスクをチャンスに変え、変革の試みを行うためにも、これまで以上に現実について学ばなければならない。その現実をチャンスに結びつける際に必要なことの一つとして、以下のような想像力を上げることができるのではないだろうか。「現世の価値を否定して来世に生きようとする時間的意識の下に自死を選んだテロリストたちも、心の奥底では、現世的価値を現在から未来にわたって肯定しようとする時間意識に立つ北の人々とともに、生きるに値する世界を共有したいと望んでいたのではないか考えてみる想像力」、「国境やナショナリティや文化の、そしてそれらすべてに関わって歴史の制約を超えうる」人間の想像力である(加藤節『政治学を問い直す』ちくま新書、2004年)。リスク社会の中にあって、それを内側から乗り越えていくためにこそ、想像力が必要なのではないだろうか。05・2・28



  ぜひ君たちに読んでもらいたい本も紹介します
  これらは2002年ー2003年に図書館HP「教員推薦図書」に載せたものです

 

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